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2013-01-23

表現について

芸術とはみえないものをみえるようにすることだ
パウル・クレーのこの有名な言葉を手がかりにして、芸術における表現とは何か、という問題について考察して
みたいと思う。今日は、”私”というよそよそしい人称は使わないで、”僕”と書いてみよう。
<みえないもの>は<今はみえなくなっているもの>だと僕は考える。言い換えれば<今は忘れているもの>だ。
何かが目隠ししている。仕事で疲れ過ぎているからかも知れないし、彼氏・彼女と最近上手くいってないからな
のか、家庭の問題なのか、悲しいこと辛いことがあったのかも知れない。あるいはその反対。万事上手くいって
て何もかもが楽し過ぎる、とか。まあ、あまりそんなことは無いだろうが。大小様々ではあるにせよ、それら現
実および日常の波に揉まれたり飲み込まれたりする過程で、みえなくなっていくものや忘れていくもの、いろん
な波に削り取られて小さくなっていくものがある。嫌なことなら忘れてしまってもいいかもしれないが、生きて
いく上で大事なものを見失うことだってままあるだろう。芸術において表現の対象となり得るものは、実はこの
ような見失われているものや今見失われようとしているものたちなのではないだろうか。
今はみえてないけれど明確に知っていること。今は忘れているけれど本当は覚えていること。小さくなって今に
も消えてしまいそうなもの。芸術をする人間の役割は、そういった<みえなくなったもの><忘れているもの>
<小さくなったもの>の中にある、人間にとって最も根源的な感情や感覚を作品に昇華させ、それらを人々のな
かに再び蘇らせることだ。そうすることで、人々はほんのひと時であれ、自分を縛る物事から解放され、自由に
なる。そしてまた、大きなエネルギーを得ることもできるだろう。凄い芸術作品に出会って心震える時のように。
これは、言葉にすると”表現”というあまりに簡単な二文字で済んでしまうのだが、実際にやってみるとそう容易
いことではない。少なくとも、小手先でなされる”表現”が虚しいことは確かだ。僕は、それを食べることで生き
ていける、と思えるような音楽こそを目指したい。生きていくのに必要な音楽を。


ところで、”表現”には大別すると3つの手法があるように僕は思う。
1.刷新
2.照射
3.拡大
1は、常識や概念を塗りかえること。たとえば愛という概念。多くを語られあまりに手垢のついてしまった言葉。
これを誰も考えてもみなかった切り口で鮮やかに提示すること。対象は再び輝き始める。そして可能性が広がる。
グレン・グールドが刷新の名手であったことは今更疑いようがない。彼は、僕たちの見慣れた景色を初めて見る
世界にかえてしまった。バッハを彼のような特異な視点から弾いた人を僕は知らない。もう一人誰か挙げるとす
れば高橋悠治ぐらいだろうか。しかし、この表現法だけで作品を創り続けるのは難しい。新たな視点を発見して
も、それが古びるのにそう時間はかからないのだ。こればかりはどうしようもない。
2は、意識の光が届かない遠い場所のどこかにスポットをあてることだ。影に隠れているものをみえるようにす
ること、と言い換えてもいい。おそらくクレーの言葉が指しているのは、この照射のことではないかと思われる。
人々の意識下の闇に眠る感覚を、画家の眼は正確にとらえていた。だが、これは並大抵なことではない。普通の
感覚ではすくい出せないようなものをとらえるのだから才能の有無は言うまでもない。厳しい訓練も必要になる。
これをどこまでもつきつめてくと、一部の天才的な芸術家だけがなせる神業の領域に到達するのだろうか。僕に
は全くわからない。ひょっとすると、そこは狂気の世界なのかも知れない。
3は、意識でとらえられるが小さくなってしまっているものを拡大すること。これは芸術の手法として、昔から
用いられてきた方法だと思う。そしてこの方法が現代社会においても、効果を発揮するものだと僕は信じている。
現代日本における個人の生活感情や感覚は、細やかで繊細なものの占める割合が多い。微細な感情や感覚はとて
も親しいものだ。それらを僕は愛している。だが一方で、喜怒哀楽といった原色みたいな感情や、ものすごくお
腹が減るとかいった単純な感覚は、効率の良い便利な生活が実現するごとに反比例して少しずつ小さくなってい
るような気がする。お腹をさすって大笑いするとか、嬉しさのあまりつい踊り出してしまうとか、そういう経験
も少なくなってきた。また、大人になるにつれて感情は複雑に細分化していくものであるとしても、自分で複雑
にし過ぎて迷子になっていることもある。自分でもよくわからない感情に振り回されて、どうしていいのかわか
らなくなっていたりする。だから、「あなたのこと好き」とか「嫌い」とか「手があたたかい」とか「胸が痛い」
とか、そういうシンプルで原初的な感情や感覚をもっと大切にしてもいいと僕は思う。生活の中で小さくなった
それらの感情や感覚を思いっきり拡大させて、生々しい体験をもう一度取り戻すこと。それがこの拡大の原理だ。
拡大の原理は大震災にも如実に現れている。原発はヤバいとか、日本は地震列島だとか、地震が起こるまでにも
いろんなところで危険は指摘されてきたはずだった。ところが日々の生活は、危険なものがみえないようになん
となく恐怖の感情に蓋をしてしまっていた、と思う。つまり、本当は大きなものを小さくしてしまっていたのだ。
被災しなかった僕にとって3.11がショッキングだったのは、被害の大きさはもちろんなのだが、地震と原発事故
によって否応無しに拡大されてしまった人々の恐怖と不安、悲しみ、怒りが渾然一体となって言葉を超えた巨大
なものになっていくのを感じたからだ。それまで僕はしばらくこの感情を忘れていた。突然蓋はひっくり返った。


“表現”という言葉がずっと嫌いだった。西洋音楽をやっていると、何かしら人の口から”HYOGEN”というよくわ
からない音がスルッと簡単に出てくる。そして、”表現”が他の言葉に付随して出てくる場合はもっとたちが悪い。
「表現力」とか「音楽的な表現」とか「音楽は感情を表現するもの」とか。はっきり言って、人の口からそんな
に頻繁に、かつ簡単に出てくる言葉が音楽と深い関係にあるとは信じたくなかった。なんかうさん臭い言葉だな、
と思っていた。皆何の疑いも無く”表現”とわかったように言ってるみたいけど、本当のところはどうなんだろう。
なんか怪しい言葉だな、とも思っていた。「表現ができていない」と言われて、”表現”とは何かを人に問うても、
概ね同じような答えしかかえってこなかった。つっこんで質問しても、納得できるような答えは得られなかった。
それでかなり意識的に”表現”に背を向けるようになった。高校生のころだ。
それから10年以上迷って(ここには書かないし書けないが)、いいかげんそろそろ”表現”と真剣に向き合っても
よさそうだ、と思えるようになってきた。恥ずかしながら最近のことだ。そしたらこんな長文になってしまった。
だが、この考察で自分なりに”表現”という言葉の核心に少しは迫れたと思う。あとは言葉を超えてこれを実践し
ていけるかどうかだ。表現は人間の行動なのだから。

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